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坂本龍馬の痕跡

幼少期の龍馬について

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幼少期の龍馬は落ちこぼれの部類に入っていて
特に目立った子ではなかったみたいです

龍馬は1835年に土佐藩士坂本八平直足の次男として産まれ
誕生日は11月15日といわれています。この日は龍馬が33歳の時に
近江屋で暗殺された日と同じ日になります
天命なのでしょうか・・・

毎年11月15日が「坂本龍馬の誕生祭」も高知県高知市の
上町にある龍馬の生家前でイベントなども開催されています
全国から龍馬ファンが駆けつけるそうです

そんな龍馬は小さい頃「楠山庄助塾」に通っていましたが
あまりの出来の悪さに退塾させられたと言う経歴もあります

また泳ぎなども出来なかったそうで、姉である乙女に
無理やり泳ぎの訓練を受けていたらしいです。

一説では縄を龍馬の腰と竹竿に結んで命綱として、
近くに流れている川に投げ入れると言う特訓方法との事(笑)

そんな龍馬も剣術道場に通う様になった事で
少しずつ変わっていく事になります。その道場で
「小栗流和兵法事目録」が伝授される事にもなります

誰でも最初から凄い偉業を成し遂げた素質があった訳じゃありません
いつでも自分を信じて、自分の道を貫く事が大切なのかもしれませんね


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日本で最初に新婚旅行をしたのは龍馬とお龍?

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寺小屋事件から傷を追った龍馬は傷を癒す為に
西郷隆盛らの勧めで鹿児島に妻のお龍と一緒に行ったそうです。
以前勝海舟から「西洋には結婚したら夫婦二人で旅行に出掛ける

『新婚旅行』と言う物がある」と言う事を聞いていた事もあったらしく
龍馬はこの霧島への旅を「新婚旅行」と言う様になったみたいです

旅行先は塩浸温泉から始まり、高千穂峰、霧島神社等を
2人で訪れたそうで色んな場所にその足跡が残っています。

この新婚旅行はとても楽しかったみたいで、龍馬の姉である
乙女に何通もの手紙を送っていたらしいです

もっと2人で本当は色んな所に行きたかった事でしょうね・・
時代を駆け抜けた龍馬のほんの僅かな終息のひとときだったのかも・・


龍馬が歴史を超えて人気を保つ理由

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幕末を救ったとして龍馬は社会の教科書にも載っているぐらい
世間一般の方に広く知られています。志しを持っている人の
理想像として色んな方に根強い人気があります。

坂本龍馬を題材にして書かれた司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に
多大なる影響を受けたのが俳優で歌手の武田鉄也さんです
「海援隊」と言うグループを結成した位ですからね!

織田信長の様に表立って活動をしていた政治家的な役割をしていたのではなく
目立たない裏役に徹していたと言われています。また坂本龍馬に関する資料も
それほど実は多く有る訳でもありません


龍馬の人気は「薩長同盟の締結」「大政奉還」「海援隊の結成」等が大きいです
この出来事をドラマ等で放映されて今に伝わっている事から人気が出たと思います
偉大な功績を残したのは事実ですのでこれからも共感する方が
龍馬伝を通じて増えるでしょうね!


高知県にある坂本龍馬の記念館

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龍馬の記念館は高知桂浜にあります開館は古くはなくて
1991年に立てられました。まだ20年も経っていないのです

龍馬生誕150年を記念して1985年頃
実行委員会が発足してはじまったみたいです

支援金で作るというスタンスではなく
青年達の募金活動によって作り上げたそうです

同じ桂浜にある龍馬像が募金によって
作られたのがあるからみたいでした


募金を集める為に様々なイベントが行われ
1991年にやっと開館を迎える事が出来たと言う事で
市民の皆さんの強い思いが伝わってきます


私も行った事があるのですが坂本龍馬の
蝋人形みたいなのがあった事が記憶に残ってます


凛としていて、視線は世界を遠くを見つめている
感じがしました。近代的な建物の中にある


龍馬の人形は違和感がなく、新しい事に
目を向けていた龍馬には相応しいのではないかと思います。


展示物としては龍馬が愛した刀、使っていたピストル
龍馬に関係している人物の銅像の写真等、資料等が
色々展示されています


坂本龍馬のお墓の場所について

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龍馬の墓は土佐にあると思っている方がほとんどだと思いますが
実は京都の八坂神社の南東に位置している「維新の道」と言う
坂道を上がった所に龍馬のお墓はあります


場所は東山霊山と言う所ですね!霊山護国神社があるのですが
1043名もの明治維新に尽力を注いだ人達が
弔われていると言われ、


ここには坂本龍馬だけではなく、一緒に近江屋で暗殺された
中岡慎太郎をはじめとして高杉晋作、桂小五郎
新撰組によって暗殺された方達が眠っています。


龍馬のお墓は一般の人の墓地とは違った雰囲気を出していて
墓所へ入る為には有料の入場券が必要になります。


有料なのですが、ちょっと嬉しい工夫がされていて
券自体が坂本龍馬の名刺になっています


「土佐海援隊隊長、亀山社中代表取締役」と
書いてある入場券はファンなら誰でも記念にしたいと
喜ぶものではないでしょうか。


お墓までの道のりは石板が山ほど置かれていて
その石板には龍馬への熱い言葉やメッセージが
沢山書かれています。


龍馬のお墓からは京都市内が
一望できる様になっていますので
いつでも龍馬は世界を見据える
場所にいるのでしょうね!

更に5,000点以上の資料や
品物が展示されています


坂本龍馬の暗殺説について

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坂本龍馬の暗殺説は、実は色んな説があるそうです
新鮮組ではないのか?と言う説が有力な候補らしいですが

元新鮮組だった伊東甲子太郎が暗殺された後の
近江屋に残されていた鞘を見た所

新撰組の原田左之助が持っている鞘だと
証言した事から説が浮かびあがりました。

その後新撰組の原田を始め、近藤勇ら
隊士を調べましたが暗殺との関与を否定しましたので
真意は定かではなくなりました。


元々証言した元新撰組の伊東甲子太郎が所属していた
高台寺党が暗殺したのではないかと言う説もあります


またこんなお話もあります。京都見廻組は龍馬が深手を負った
寺田屋事件で、龍馬がピストルで幕吏数人を
殺害したのではないか?と龍馬を追い続けていました


だから暗殺したのではないか?と言われていたのですが
今井信郎や渡辺篤と言った元組員が龍馬を暗殺した

その証言の内容と多少食い違いがある事から、
売名行為と言う様にみなされ真意は謎と言う事になった様です。
更に「薩摩藩が黒幕だった」「土佐藩が暗殺した」と言う説もあります


近江屋で殺害された誕生日が命日になった坂本龍馬の最後

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寺田屋事件が起こった後隠れ家として京都にある醤油商近江屋の
裏庭に密室を作ったそうです。脱出ルートも整えており策を練っていたみたいです


同志の中岡慎太郎と共に近江屋の母屋の2階に行き
温まっていたそうです。別の仲間も加わり話に花が咲いてきた所で


「食事でもしよう」と言う事になり、その中の1人が材料を買いに
その後、帰る人も出てきて部屋の中は龍馬、中岡慎太郎
護衛の藤吉の3人になりました。


その後に十津川郷士と名乗る数名の男が
近江屋の母屋に乱入し、先ず部屋まで案内しようとした
護衛の藤吉を背後から斬り付けて殺害したようです。

藤吉が殺害されて倒れた音を聞いて、外でふざけているのだなと
勘違いした龍馬は完全に気を抜いていたと思います。


そこに男が2人乱入してきて龍馬の額を斬ったと言います。
この時に出た血がかかった掛け軸は今でも残されているそうです。


その後に中岡も斬られ、2人とも数カ所斬られました。
龍馬は息絶えたみたいですが、後に残った中岡は
重傷ながらも暗殺時の状況を土佐藩士に伝え
2日後位に息絶えた様です。


その翌月に「王政復古の大号令」が発令されて
新しい日本が誕生するのでした

坂本龍馬は死ぬ間際「残念、残念」と呟いていたそうです
殺害された日は龍馬の誕生日、これが命日となってしまいます
こういう事ってあるのでしょうか?

天が決めた事なのでしょうか・・
日本の為に短い生涯の間に生き抜いた龍馬に感銘をうけます


坂本龍馬はブーツ派でお洒落さん

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龍馬は実はブーツ派みたいです(笑) この時代でブーツを履くとか
ありえなくないですか?着物にブーツとかありえないかも
しかし、ブーツを履いた龍馬の写真は結構あるんです


ブーツは長州の高杉晋作からもらったと言われている説もあり
別の龍馬の写真では亀山社中と言う商社を開設し、外国から
色んな物を輸入しているグラバーと言う方の力を借りていたそうです


そのグラバーが住んでいた場所に靴屋があり
龍馬が履いていた靴が既にボロボロだったのを見かねて
新しい靴を作ったのではないかと言う様な説があります。


ある意味時代のお洒落最先端を龍馬は
常に走っていたのかもしれませんね!
そう考えるとこの時代で凄いな~


坂本竜馬なのか?龍馬なのか?

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坂本竜馬と書く人もいるみたいですが、本来の字は「龍馬」が正しいです
「竜」は司馬遼太郎が書いた「竜馬が行く」以来、現代で慣用化されています


更に龍馬が生きていた当時を見ると「良馬」と当て字で書かれていた
物も残されている事からもやっぱり「りゅうま」ではなく「りょうま」が正しいみたいです
彼が残した有名な名言が「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」


世間の人が言いたいのであれば自分の事を言いたいだけ言えば良い
でも自分のやりたい事は自分だけが知っているのだと言う意味です

ちょっとした豆知識でした!


日本で最初に新婚旅行をしたのは龍馬とお龍

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龍馬は西郷隆盛らの勧めで鹿児島に
妻のお龍と一緒に行ったそうです。
この時、師匠でもある勝海舟から


西洋には結婚したら夫婦二人で旅行に出掛ける
『新婚旅行』という慣わしがあると言う事を聞いた事があったらしく
龍馬はこの霧島への旅を「新婚旅行」としたみたいです


旅行先は塩浸温泉から始まり、高千穂峰、霧島神社等を
2人で訪れたそうで色んな場所にその足跡が残っています


この新婚旅行はとても楽しかったみたいで、龍馬の姉である
乙女に何通もの手紙を送っていたらしいです


でもあれだけ忙しい幕末の時代に良く旅行に行く
時間があったな~と思うのは私だけでしょうか?
最初で最後の2人だけの幸せな時間だったのかもしれません


坂本龍馬と勝海舟の出会いが生んだ軌跡

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龍馬と勝海舟が一番交わったのは神戸海軍塾です
政府の幕臣達が勉強をする場所として創設した勝海舟と
その「神戸海軍塾」の塾頭と言う立場に龍馬はいました


勝海舟はその身分から自由に行動できない立場でしたので
手足となって動いたのが龍馬でした。塾の設立をするにあたり
坂本龍馬が越前福井藩主松平春嶽を訪ね、資金調達などもしたそうです


龍馬が後に行った開国主義と言う考えも、薩長土同盟と言う考えも
全て勝海舟の理想から影響を受けたものだったみたいですね!


薩長同盟と言う快挙も、勝海舟が坂本龍馬を西郷隆盛に紹介した事が
きっかけとなって成功したと言われています。
キューピットなんですね~勝海舟は♪


幕末の歴史を大きく動かしたのは間違いなく上の三人です
龍馬伝でもこういう部分がちゃんと描かれているとうれしいですね


高知が生んだ日本を洗濯した坂本龍馬の偉業

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坂本龍馬が生まれたのは天保と言う時代です
天保6年11月15日です。西暦に直すと1836年1月3日でした


亡くなったのは慶応という年号に変わり3年11月15日
西暦で1867年12月10日32歳の若さで亡くなりました


幕末の政治家的な立場の人で、土佐藩を脱藩した後に
有名な海援隊を結成しています。武田鉄也さんも
龍馬が好きだから海援隊と言う名前にしたのでしょうね


龍馬は大政奉還の成立に力を注ぎ薩長連合の斡旋をしたりして
志士としても多くの活動をしてきた人であったようです。
剣術もかなりのものだったらしいです


龍馬は死後に世の中の人に知れ渡る様になりました。司馬遼太郎が書いた小説
『竜馬がゆく』で主人公で取り上げられて以来、絶大な人気を誇っています。


最後は悲しい事に暗殺されるのですが、近江屋新助宅母屋にいて
海援隊と話をしていたところ、十津川郷士と名乗る男達が
突然乱入してきて斬られた言う事です。


店の中なのでに刀を持っておらず額を
深く斬られ暗殺されたと言われています。
これには色んな説があるみたいです


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